「報われなくてもいい」という言葉があってもいいとふと思った

最近寝れない。なぜかというと不安が止まらなくなるからだ。学生を終え就活と戦い、社会人になってやっと仕事を(不器用ながらも)覚えこなせるようになってきたら、今度は結婚という将来に向かって恋人作りに励まなければならない。


励まなければならない、というルールはあるわけでは無いけど、遊ぶ友達も減っていき、街を歩けばカップルが溢れ、親戚に会えば恋人の話になる。なんとなく学生を卒業すると、人間としての「普通」を突きつけられているような感じがして生きづらくて堪らない。映画やドラマを見れば、恋愛のハッピーエンドしか描かれていないし、そんなうまくいくわけあるかよ、と今日もまた悲しくなる。SNSを開けば、あたかも恋愛成功することが当たり前であるかのような世界が広がっている。

自分自身、恋愛関連では散々報われない思いをしてきた。そろそろ報われるかも!と期待をした先にあるのはいつも「絶望」という名の脈ナシである。そこから這い上がって頑張るという気力は勿論残っていない。頑張っているのに、一体なぜいつもこうなるのか。もう今すぐにでも恋愛社会のレールから外れたい気持ちでいっぱいだ。もっと気楽に、楽しく、報われながら生きたい。


インターネットで「なぜモテないのか」を検索しても、答えなどそこにはない。インターネットがすべて自分のことを教えてくれるわけではない。どうやら自分で考えるしかないらしい。恋愛はタイミングと運、という言葉があるが果たして本当にそれだけなんだろうか。


この世には運命という言葉があるが、「恋愛に報われない」という運命があってもいいと思う。当たり前のように「恋愛はいつかは報われる」という風潮が世の中にはあるけれど、「ずっと報われなくてもいい」という言葉があったら、それは誰かの救いになるのではと思う。

そう、ロックバンドの歌詞みたいに。(多分)。


恋愛でこんだけ報われないんだったら、別のことで報われると思っていいんでしょうか神様。そうであってくれ。


という夜中の独り言。

CDで聴くこと

何か強烈に心を突き動かされるバンドに出会った時、今の時代音楽ストリーミングサービスで聴けるけれどもCDでしっかりと当時買ったかのように聴きたい。平成にCDで青春を送ってきた人間なので、新たなコンテンツの沼にハマった時避けて通れない儀式なのである。ストリーミングサービスが当たり前の時代になった今、改めてCDの魅力を書き記したいと思うのである。歌詞カードに印刷されている歌詞を読んだ時、自分対バンドという1:1の関係性が出来る、と思うのである。流行や時代の流れなどはあるけど、暗い部屋でCDを再生した時の快感。
音質はストリーミングサービスと若干違うと思う。なんというか、ステレオ感が強いというか。最近になって気づいたけど、ストリーミングサービスの音質も素晴らしいがCDは音の分離感があるなあと思う。スタジオでレコーディングしていたのがダイレクトに伝わるというか(伝われ)。
レンタルショップに行って、めちゃくちゃにあるCDのなかから見つけた時は快感である。レンタルショップはやはり「自分で探す」感じがとても強いところもレンタルショップの良さである。
ストリーミングサービスの時代でも、レンタルショップは生き残りつづけてほしい。
でも、ストリーミングサービスのおすすめで出会えるものもたくさんあるんだけれども。

世界一の憧れの推しギタリストがやらかしていた

世界一の推しがやらかしていた。この人の名前をたぶんおそらく、いや絶対人生で1番叫んできたと思う。し、自分のロックギター愛の源の中の源の人。いつか、いつかは目の前でサインを貰って握手をしてメッセージを伝えるんだ!とこの世の誰よりも願っていた人であった。願っていた、と過去形にしてしまったが願っている。という現在進行形の文章を書きたい。その気持ちを過去形のものにしてしまったら、自分の大切な何かが本当になくなってしまう気がする。知ってしまってから、自分の心の核となるものがなんか抜けたような気がする。愛の行き先が不明というか。重すぎるけど。自覚しているが愛が重すぎる。でもそれだけ私の思春期〜今までを形成したといっても過言ではない人物であり、私のアイデンティティのひとつなのである。誰かは言わない。

 

それから新たな好きなものができたりして日々楽しく過ごすが、やっぱりふとした瞬間に、ああもうあの頃には戻れないんだな、とがっくりくる。世間的にはああ、またやらかしたか芸能人が、という感覚なのだろうけど、私にとっては一つの心の終わりである。芸能人っちゃまあ芸能人だけど、バンドマンである。バンドマンは芸能人扱いを最近されるがバンドマンはバンドマンである。数年前まではバンドと芸能人というのの線引きがしっかりあったのに、今ではほぼ一緒である。バンドマンはバンドマンだけの世界でスタジオにこもってファンと1:1の関係性であるべきだ、あってほしい。ずっとそれが続いていたら、こんなことにはならなかったのでは?とおもうけど現実は現実なのである。受け入れなければいけない。いつまでもガックリしてはいられないので、まあ地球滅亡したわけではないんだし、希望はゼロではないし、バンドも解散したわけではない。ゼロではないと信じて、明日もぼちぼち過ごしていきたいと思って、日々を過ごしている。今はやらかしてしまったあの人だけれども、今までもらった数年分の愛情と思い出とアイデンティティは、ずっと私の中で輝いているんだと思う。

SNS依存を脱してみた

Twitterをやめた。これをやるには本当に数年かかった気がする。毎日タイムラインを見て推しに対しての愛を呟き、笑って終わる毎日に、私は楽しさと同時にどこか「本当にこのままでいいんだろうか」と思っていた。完全にインターネット疲れ。自分の承認欲求にも疲れた、というのもある。

やめてみて、感想。

「脳内が静か」。これ。日々タイムラインに大量に流れてくる情報がない。ないからもちろんそれについて考えない。外の情報がないから、自分の気持ち?に寄り添えている気がする(かっこよく言うな)。

あとは、自分の「これやってみようかな」という頭の片隅にあったものを思ったより早く実行できたことがよかった。

スマホがなかった時代に戻ったみたいである。愛するバンドたちの情報はバンドのオフィシャルサイトで見るようにした。昔みたいに。これ、何気に今やると新鮮で楽しかった。自分が見に行くまでわからない、という感覚。

あとは、画面と睨めっこをそんなにしなくなるため、自然と自分の周りにあるものを見るようになる。読んでいなかった本とか読んだりして「ほぉ〜」となったりした。

良い意味で時間が経つのが遅い、というのもある。

こんな日々も悪くない。

美味しすぎる曲


デビュー前でこの変態度と独特なメロディ、エフェクターの凝り方、聞けば聞くほど噛めば噛むほど美味しくなるスルメ曲、フジファブリックの「お月様のっぺらぼう」。イヤホン全てから聴こえてくる音が全部どスケベなのだ。

裏打ちの音が多すぎて脳内がバグりそう(褒めてる)だし、変態とはこのことか…と思わせられる。

初期でやるレベルではないのである(と思った。個人の感想)。

 

ずっと同じコードで鳴り響いているカッティングギターも大変どスケベさを感じるが、裏打ちのドスケベコードのピアノ、それに乗って裏打ちのボーカルの旋律といい、裏打ち大好き人間としてはいつのまにか口の中でヨダレが分泌されているほどの美味しい曲。多分朝ご飯くらいのカロリーは摂取できると思う。


この曲のすごさはリズム感だけではなく、世界観までぶっとんでいる。

「お月様のっぺらぼう」って何だ?となる。お月様、まではわかる。けどお月様に続き「のっぺらぼう」って何だ?気になって歌詞を見てみる。

「眠気覚ましにと飴一つ その場しのぎかな…とまたひとつ」

 

あ、飴ひとつ…その場しのぎかなとまたひとつ…クセになるリズム…なんでのっぺらぼうと関連性が…?り、リズムがクセに!ああああ!!のっぺらぼうは何だあああア!!!!!(楽しい)

続いて、サビ。

「ルナルナ お月様 のっぺらぼう」

 

のっぺらぼうについては詳しく言っていない。「ルナルナ」しか言ってない。

続きを見てみる。

 

「あの空を見た 遠くの空には虹がさした」

なるほど、お月様を見上げて、その空には虹がさしていると…解釈した。

 

でも、のっぺらぼうは…つまり、何なんだろう……

 

色々考えたが、この曲においての「のっぺらぼう」とは顔がない月のことを言っていると思った。

それか、のっぺらぼうって日本の昔話とかでよく怖い話とかに出てくるアレを連想する。

なので、ちょっと奇妙な、怖い感じがする。

でも志村正彦はのっぺらぼうについて無機質に歌いながら何も説明してくれない。ドSすぎる。のっぺらぼうについて永遠と考える日がくるなんて…。もしかして

 

「ルナルナ」

 

の部分に月とのっぺらぼうについての全てが詰まっている…ということなのだろうか。

 

知りたくて、でも全てを言わないってのが中毒性を出してて、奇妙で謎めいた世界を味わいたく、何回も聴いてしまうのだ。