夜中に起き続けてしまう理由

私は夜中に起き続けてしまう。寝る準備が面倒くさい、という理由だと思っていたが、最近は「夜中」が好きだから、非現実な感じがするから、だと思うようになってきた。夜中にアルバム一枚ぶっ通しで音楽が聴きたくなるのも、アルバムの世界に行ける感覚がするからなんだと思う。

人が動いていない夜の中でただ1人、自分の世界だけが広がっている感覚がする。1人野原で星空を見上げているような感覚。そうだ。この異空間みたいなところが好きなのだ。今日を終わらせたくない、というのも少しあるが。多分夜中の謎のパワーなんだと思う。もしかして月が関係している?知らんけど。

なおそうなおそうと数年思い続けてきたがダメだ。夜中は快適すぎる。特に金曜日の夜中なんて最高だ。こうやって書いている今も夜中だ。楽しいのである。

だけど、社会に適応できないので、直さないといけない。どうやって直すのか。

一番は「規則正しい生活をイメージし、自分がとても幸せそう」なところをイメージすることだろうか。いやいや、全然できない。夜が楽しいんだから。

寝るということが夜起きることより楽しみ!と思えば寝れるんだと思う。

よし、わかった。「寝るときに好きな曲をかけながら寝る」ということを必ずするのが良い。一旦試してみて、どうだったかまた書きたいと思う。なにを当たり前なことを言っているんだ?

人はいつから日常を人に見せるようになったのか

というテーマで書いていきたい。

今の時代SNSで自分に起こったことを次から次へと投稿するのが当たり前となっているが、一回立ち止まって考えたい。なぜ人は日常のことをわざわざ人に教えるんだ??

友達と会話している時などに話すのはわかる。しかし全世界に発信する必要が本当にあるのかどうか、今ちょっと考えたい。全世界というわけではなくても、たぶん特別仲が良いというわけではない人にも見える、というのがSNSだ。そんなSNSは、刺激を受け、良いところももちろんあるが、「どれだけ自分が充実、成功してるか」というのをアピールする自己PRみたいなものに思う時もある。というか最近はもうそういうアピールの場所になっていると思う。自分も正直潜在意識的にはそういう気持ちもほんの少しあって投稿していると思う。「共有したい」という気持ちで投稿するわけだが、一体何を共有するんだろうか。あの子が〇〇に行った、〇〇と会っていた、など情報があふれている。毎日滝のように流れてくる。「共有」はたしかに人の輪にいるような安心感、孤独を感じないメリットがあるが、そこから先には一体何があるんだろうか?自分もこの「共有」に安心していた時もあるが、たぶん本当の意味で「共有」はされていないんだと思う。人間である以上、みんなが同じということは絶対にありえないので、絶対にその「共有」にズレが出てくる。そして生まれるのだ、嫉妬やマイナスの感情が。たとえ自分がどれだけ幸せだろうが、人はよく見えるもので、「ズレ」は必ずどこかにあるので、自分と心のどこかで比べてしまう。マウント合戦になってしまう場合もある。こんなのアホくさすぎる。一体いつから私たちはキラキラでいようと必死なのだろうか。「成功している」といつから思われたくなったのだろうか。仮に、成功していると思わせたとして、素直に「すごい!」と心の底から思う人なんて限られていると思う。ほぼマイナス思考に陥ると思う。そういうのがSNSなんだと思う。本当によくない。いや、もちろん良い部分もあるんだけど。

そもそも「成功」って何だ?と思う。もっと、素直に、キラキラしすぎず、よく見せようとせず、本音で語り合いたいなと思う。SNSとの付き合い方を見直したい。情報は多ければいいというものでもないなと最近は思う。こんな時代だからこそ、図書館にでも行って自分の世界に没頭したい。

ART-SCHOOLの復活ライブの余韻を書きまくる

ART-SCHOOLのファンにしっかりとなってからやっと初めてワンマンライブに行けた。まず余韻の中で一番思うのはもう「木下理樹がしっかりと目の前に存在した」という感動で、声も最高にバッチリで、2022年なんだけど、ライブハウス内は2003年か2007年な感覚がしてタイムスリップした感覚。YouTubeDVDで何度も見ていた木下理樹の声とギターの音色がもうすぐそこに存在していた。

木下理樹、やっぱりすごい。いやずっとすごいのは映像や音源でわかってたんだけど、木下理樹が歌い出すとその空間が一気に「木下理樹」の世界になる。曲を通して、他のバンドにはない、独特な木下理樹という人間味、世界観をエモーショナルに感じる。圧倒的な唯一無二な存在感と表現力である。もうすぐ木下理樹になりそう(ならない)(最高に褒めてる)。帰ってきた今でも木下理樹WORLDである。どうかこのまま次のライブまでに余韻WORLDが続いてほしい。お願いします。


木下理樹がステージに立ち、マイクを握りしめ、歌い、ギターを歪ませかき鳴らすということだけで感動するというか、しかも今日は復活という日で、不器用さがあるけれど全身全霊で音楽をやっている、ということが本当に声と音で伝わってくる。木下理樹が発する一音一音、すべて惹かれるほんとに。目をそらせないというか。あと純粋さもとてもとても感じた。色々なバンドマンが口を揃えて彼らはすごかった(初期の頃から)と言っているが自分も音源、映像で感じていたその感覚をしっかりと感じることができた。Swan Diveたまらん。改めて歌詞の美しさに感動。Swan Dive歌っている時の木下理樹、本当に純粋な白さを感じるというか、少年性をとても感じる。名曲すぎる。

アダージョもピンマイクたまらん。アダージョ特に大好きなので嬉しすぎた。歌詞に心を込めて歌っているのがわかって、アダージョの歌詞の「どんな痛みもむしろそのままでいい」「でも今日はそう歌うんだ」と木下理樹の口からやっと生で聴けたという感動。Flora2007年だけど今にも続いていると感動した。最高FloraJust Kidsの歌詞はライブで聴くことにより、木下のリアルタイムのことが伝わってきた。前を向いていく強さと、光を感じた。

そしてロリータキルズミー。この曲に入る前に、あのアルペジオ木下理樹が弾いたこのアルペジオ2007年のFloraツアーの映像(n回目)で弾いているが本当にこのアルペジオは美しくて柔らかく、優しくて、映像を見ながら何度も泣きそうになった。それを今日木下理樹が弾いた。

これは現実?!?!?!?あのアルペジオを入れてくるというずるい優しすぎ泣かせてくる!生で見て泣きそうにならないわけがなかった。今日も木下理樹らしい音で、優しいアルペジオだった。感動した。そこからのシャーロットとか本当に泣かせにきてるよ。神?

今日のライブを何周もしたい。


トディさんのギターも芯があり綺麗でカッコよかった。レディバードのイントロが特に綺麗で印象的だった。あとスカーレットのイントロも優勝すぎる。


リズム隊もそれはもうゴリゴリで良かった。シャーロットのベースやはり退廃的な美しさを極めていて青い(多分)光の中のシャーロットはもう神。FADE TO BLACKで勢いのあるシンバルから入りジャージャジャージャーってくるの最高すぎか。映像で何度も見ていたこの瞬間が、生で存在してて、あの音に包まれて幸せだった。


トロデイのギターのかたもカッコよかった。コーラスも美しかった。ニトロデイ、いつか見てみたいなと思っていたので、嬉しかった。


フライングVの音も最高に木下理樹だった。クロエのカッティング最高すぎる。木下がフライングVをかき鳴らすと、一気にオルタナ感(?)と音の厚さが出る。フライングVを持ち上げ、かき鳴らす木下理樹、最高に木下理樹で最高だ(語彙力)。


声が大優勝だったほんとに。本当に復活したんだなと、グッときて、映像で見まくっていたFloraのツアーファイナルに近い声で、ああ本当にいると感動が止まらなかった。あの2000年代の木下理樹が目の前で歌っているART-SCHOOL木下理樹さん、本当に本当に復活おめでとう!!!!(大声)(泣)アンコールもなんとダブルで、ダブルアンコールに答えてくれて本当にありがとうございました。こうして目の前にいてくれるのが幸せです。幸せでした。ありがとうございました。頭振りすぎた。それくらい興奮したライブ、DVDが出たら何周もしたい。彼らの鳴らした音楽が、私の血となり肉となり、救いとなり、エネルギーとなる。


おかえりなさい。


#木下理樹 #ART-SCHOOL

CDで聴くこと

何か強烈に心を突き動かされるバンドに出会った時、今の時代音楽ストリーミングサービスで聴けるけれどもCDでしっかりと当時買ったかのように聴きたい。平成にCDで青春を送ってきた人間なので、新たなコンテンツの沼にハマった時避けて通れない儀式なのである。ストリーミングサービスが当たり前の時代になった今、改めてCDの魅力を書き記したいと思うのである。歌詞カードに印刷されている歌詞を読んだ時、自分対バンドという1:1の関係性が出来る、と思うのである。流行や時代の流れなどはあるけど、暗い部屋でCDを再生した時の快感。
音質はストリーミングサービスと若干違うと思う。なんというか、ステレオ感が強いというか。最近になって気づいたけど、ストリーミングサービスの音質も素晴らしいがCDは音の分離感があるなあと思う。スタジオでレコーディングしていたのがダイレクトに伝わるというか(伝われ)。
レンタルショップに行って、めちゃくちゃにあるCDのなかから見つけた時は快感である。レンタルショップはやはり「自分で探す」感じがとても強いところもレンタルショップの良さである。
ストリーミングサービスの時代でも、レンタルショップは生き残りつづけてほしい。
でも、ストリーミングサービスのおすすめで出会えるものもたくさんあるんだけれども。

世界一の憧れの推しギタリストがやらかしていた

世界一の推しがやらかしていた。この人の名前をたぶんおそらく、いや絶対人生で1番叫んできたと思う。し、自分のロックギター愛の源の中の源の人。いつか、いつかは目の前でサインを貰って握手をしてメッセージを伝えるんだ!とこの世の誰よりも願っていた人であった。願っていた、と過去形にしてしまったが願っている。という現在進行形の文章を書きたい。その気持ちを過去形のものにしてしまったら、自分の大切な何かが本当になくなってしまう気がする。知ってしまってから、自分の心の核となるものがなんか抜けたような気がする。愛の行き先が不明というか。重すぎるけど。自覚しているが愛が重すぎる。でもそれだけ私の思春期〜今までを形成したといっても過言ではない人物であり、私のアイデンティティのひとつなのである。誰かは言わない。

 

それから新たな好きなものができたりして日々楽しく過ごすが、やっぱりふとした瞬間に、ああもうあの頃には戻れないんだな、とがっくりくる。世間的にはああ、またやらかしたか芸能人が、という感覚なのだろうけど、私にとっては一つの心の終わりである。芸能人っちゃまあ芸能人だけど、バンドマンである。バンドマンは芸能人扱いを最近されるがバンドマンはバンドマンである。数年前まではバンドと芸能人というのの線引きがしっかりあったのに、今ではほぼ一緒である。バンドマンはバンドマンだけの世界でスタジオにこもってファンと1:1の関係性であるべきだ、あってほしい。ずっとそれが続いていたら、こんなことにはならなかったのでは?とおもうけど現実は現実なのである。受け入れなければいけない。いつまでもガックリしてはいられないので、まあ地球滅亡したわけではないんだし、希望はゼロではないし、バンドも解散したわけではない。ゼロではないと信じて、明日もぼちぼち過ごしていきたいと思って、日々を過ごしている。今はやらかしてしまったあの人だけれども、今までもらった数年分の愛情と思い出とアイデンティティは、ずっと私の中で輝いているんだと思う。